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特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分

特殊清掃「戦う男たち」

食べ放題・生き放題

私のブログは、飲み食いネタが多い。
これは、私の趣味志向の現れだろう。
そこで読み取れるのは、これを書いている人間の食欲が旺盛であることと、食べることくらいしか楽しみがない寂しさ。
・・・自分でも可笑しいくらいに動物的な暮らしだ。
そんな変わり映えのしない毎日、目新しいことが何もない毎日を〝退屈〟と捉えるか〝平和〟と捉えるかは個人差がありそうだけど、私は少なくとも、それも幸せの一種であると思っている。
その味わいはなかなかの珍味なので私の口にしか合わないものだろうけど、こののっぺりとした生活にも、ささやかな楽しみと幸せを感じられることがあるから。

言わずと知れたこと・・・
この仕事は、決まった時間に決まった場所で決まった内容の作業がある訳ではない。
人の死を取り扱う仕事なのだから、当然だ。
早朝仕事や夜間残業は当り前。
盆も正月も日曜祝祭日も関係ない。
休暇の予定も定まらず。
昼間に比べれば少ないものの、夜中に電話が鳴ることも珍しくない。
だから、ある意味での〝退屈〟はない。
しかし、気の休まるとき・・・〝平和〟もない。
実は、自分でも気がつかないところで、それが疲労を蓄積しているのではないかと思う。

極端に過酷な仕事が続く日もあるけど、日によっては楽な作業で終わるときもある。
しかし、そんな日でも、私の疲労感は癒えることはない。
かつては、栄養ドリンクやビタミン剤に頼ろうとしたこともあったけど、それで身体が軽くなることはなかった。
たまたま私はこんな人間だから、こうして簡単に愚痴や弱音を吐いてしまうのだけど、世の中のほとんどの人は、黙って辛抱に忍耐を重ねて頑張ってるのだろう。
だから、本当は、私も甘えたことばかり言ってちゃダメなんだけどね・・・

ある日の午後、とある商店街を歩いたことがあった。
汚れた服装に好奇?の視線を浴びながら、哀れな死に方をした猫をビニール袋にブラ下げて歩いていたのだが、そんな私の目に一つのフレーズが飛び込んできた。
〝〓〓食べ放題!〟
それに興味を覚えた私は、立ち止まって書いてある内容をジックリ観察。
書かれたメニューはどれもこれも美味しそうなものばかりで、私の飢えた腹を強烈に刺激。
しかし、片手に、食事をしない〝連れ〟を伴い、ヒドく汚れた格好をしていた私が店に入れるわけもなく、頭だけで試食して店の前を後にしたのだった。

そう言えば、ここ何年か、あちこちに食べ放題の店が見られるようになってきた。
私が子供の頃には、食べ放題の店なんかなかったのではないだろうか・・・記憶にない。
また、少し前までは、〝安かろう不味かろう〟的な店が多そうだったけど、最近はメニューも味もグレードアップ。
小さな個人店から大きなチェーン店まで、和洋中、さらには菓子・デザートまで揃えられている。
これは、飽食の時代の象徴でもあり、将来の食糧難を危惧させられるような文化でもある。

私の場合、食べ放題で食べるのと普通に食べるのとでは、明らかに胃袋の緊張度が違う。
制限時間と食い意地を敵に回した、独特のプレッシャーがある。
食い意地を越えた意地汚さ・・・それが顔を出した途端、胃壁の柔軟性が低下、食べる前から胃に何かを入れたような感覚に襲われてしまうのだ。

結局、食べることの目的が定まらないまま、ただ物理的に腹を満たすために動物的な捕食を繰り返すのみ・・・
それはそれで一種の満足感を与えてはくれるのだが、同時に妙な不快感も湧いてくる。
何故だろう・・・

あと、〝飲み放題〟はいけない。
飲めば飲むほどモトはとれるのかもしれないけど、脳と身体は破滅的な方向へ行くばかりだから。
大勢の飲み会とかでないと、飲み放題は飲めない。

モノを食べる行為って、普段は何の意識もなくやっていること。
この行為、ちょっと考えると面白いことに気づく。

どんなに満腹に食べても、しばらくすると減ってくる。
そして、毎日毎日、何度も何度もその同じことを繰り返している。
この単純な作業は、生きるためには欠かせない営み。
つまり、〝食べる〟ことと〝生きる〟ことは、直結相関関係にあり、食欲は生存本能に由来する。
だから、生きる力が弱くなると食欲も減退する。
精神的にも肉体的にも、病んでしまうと食欲がなくなる経験は多くの人がしたことがあるだろう。

逆に、心身が元気なときは食欲も旺盛に湧いてくる。
と言うことは、食欲があることは悪いことではない。
食は、舌と腹だけでなく、心まで満足させることができる幸せの一つだから。

何はともあれ、私は、御馳走を陰気に食べるより、どんなものでも陽気に食べる方がいい。
高級食をすまして食べるより、大衆食を笑顔で食べる方がいい。
・・・雰囲気や気分が食べ物の味を変えることってある。
〝人間味は、抜群の調味料〟ということなのだろう。

故人は中年の女性。
200kgを超える巨漢。
老いた父母との三人暮らし。
自宅にいたところ、苦しそうな呻き声を上げて卒倒。
救急車が到着したときには、既に呼吸は止まっていた。

私は、遺体の着せ替えと納棺を依頼され、ある葬儀場の霊安室に出向いた。
故人には申し訳なかったが、私は、大きな好奇心と小さな不安感をもって霊安室に入った。

故人は、部屋の中央に安直。
通常、その霊安室では、遺体はストレッチャーに寝かされた状態で置かれているのだが、この故人は、そのまま床に安置・・・いや、〝放置〟されていた。

そしてまた、普通なら布団に包まれて顔に白い面布が掛けられているのだが、この故人にはシーツがスッポリと掛けられていた。
シーツを通して伝わってくる故人の体格はやはり大柄で、それは、仕事が困難なものになることを暗示していた。

「失礼しま~す」
私は、ちょっとだけドキドキしながら、そのシーツをめくった。

「200kg・・・」
シーツの下からは、見るからに重そうな遺体が出現。
予想以上に大きな身体の故人だった。

「気の毒だな・・・」
検死をしたせいだろう、故人は裸の状態で白地に紺柄の浴衣が無造作に掛けられていた。
その姿もそうだが、生前の暮らしぶりを勝手に想像して、私は、思慮なく故人を哀れんだ。

故人に失礼な言い方になるかもしれないけど、それは、大人1人や2人でどうにかできるような重さではないように感じられた。
動かしようがない重量と体型・・・
関節は硬直してるのに、肉部はブヨブヨ・・・
やはり、実際の作業は困難を極めた。

本意・不本意も関係なく、必然的に作業は荒いものとなり・・・とにかく、故人をモノのように扱わないと仕事にならず。
それを遺族が見ていたらさぞ胸を痛めただろうが、察しがついていたのか、遺族は納棺が終わるまで霊安室には入ってこなかった。

用意された柩は、大柄な人用の大型柩。
これは、身長の高い人や太った人用の柩で、縦・横・高ともに通常の柩よりも大きく作られている。
ただ、ニーズが少ない分アイテムも少なく、デザインもシンプルなものが多い。
その大型棺を使っても、故人はかなり窮屈そうで、箱の壁面は外に膨らむかたちで湾曲。
私は、〝柩が壊れてしまわないか〟と気が気ではなかった。

納棺が終わり、何人かの遺族が霊安室に入ってきた。
そして、その中の母親らしき年配女性が、真っ先に柩に近寄った。

「〓〓ちゃん(故人)、きれいにしてもらってよかったね」
それは、納棺された故人と喜びを分かつと言うより、私に気を使ってくれた言葉のように聞こえた。
その私は、荒っぽい作業の内容を思い出して内心で恐縮した。

「重かったでしょ?」
亡くなっているとはいえ、女性の体重を「重い」と言うのは失礼かとも思ったけど、白々しい気づかい(嘘)も失礼になると考えた私は、会釈するように黙って頷いた。

「ホントに、食べることが好きな娘でして・・・」
女性は、誰かに言い訳でもするように苦笑い。
故人の生前を懐かしそうに話した。

「でも、まさか、こんなことになるなんて・・・わかってたら、無理矢理にでもやめさせたのに・・・」
女性は、諦めと悔しさと入り混じったような複雑な表情。
そしてまた、諦められない気持ちと戦っているようでもあった。

「結局、結婚もせず・・・育て方を間違ったんでしょうね・・・」
その言葉には、女性の自責と自戒の念がヒシヒシ。
だだ、それを自分で言いながらも認めたくないようでもあった。

故人は、〝拒食症〟とは逆の〝過食症〟を疾患。
若い時から太めではあったけど、以前は普通のOL。
それが、ある時期を境に急に食欲が増してきて、次第にそれが抑えられなくなってきた。
食べる量と体重は、みるみるうちに増加。
そのうちに仕事も辞め、家にいる時間が長くなった。
幸か不幸か、家がそれなりに裕福であったことも手伝って、故人の生活は外界との関わりを薄くしても成り立った。
恋人をつくることもなく、他に趣味を持つこともなく、まるで中毒にでもかかったかのように、ただ食べることだけに没頭。
晩年は、重すぎる体重で脚を悪くしたせいもあって、ほとんど外出をしなくなっていた。

人の死は、体力や精神力・修行鍛錬などで阻止できるものではなく、極々、自然なこと。
〝誰もが死に向かって生きている〟・・・人間が自然に死んでいくことは、誰かに罪があり・誰かが責められるべきことではない。
されど、誰かが罪を負わされ・誰かが責められる・・・もしくは、誰かが自責の念にとらわれることがある。
この女性(母親)も故人(娘)の死に対して、そんな想いを抱いているようだった。

どんなに節制していても病むときは病む。
逆に、どんなに不摂生にやってても健康なときは健康。
この故人がどうだったのかは知る由もなかったけど、私には、細かいことにクヨクヨすることが、心身に一番悪いことのように思えた。
そしてまた、蓋を閉じるときに見た柩の中の故人はどことなく笑っているように見え、そしてまた、その満面とそれを見つめる女性の涙の微笑みが、見た目や表向きの暮らしぶりで人の生涯を測ることの軽率さを教えてくれているようでもあった。

身体の糧は満腹までしか食べられないけど、心の糧はいくらでも食べられる。
私が、毎日のように触れる人の死に様は、毎日何かを食べ続けて生きているのと同じように、気づかないところで自分の生き様に糧を与えてくれているのかもしれない。
もちろん、その味は、甘いものばかりではない。
塩っぱいものもあれば酸っぱいものもある。
時には、吐き出したいくらいに苦いものもだってある・・・
だだ、それぞれの味わいが合わさってこそ人生は美味になる。
そう思いながら、今日もどこかの街に出没しているのである。

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