Home特殊清掃「戦う男たち」2008年分死体と向き合うⅡ

特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分

特殊清掃「戦う男たち」

死体と向き合うⅡ

簡単なことを難しく考えて足踏みしているうちに、もう12月。
今年も、残すところ、あと一月をきった。
樹々の紅葉も深まり、澄んだ青空とのコントラストが鮮やか。
初夏の新緑もいいが、初冬の紅葉にもまた格別の趣がある。
瞬間的にでも、そんな景色に触れると心が洗われて生命の幸せを実感する。

過ぎてしまえば、一年ははやい。
こんなことを言っている人は多いと思うが、それと同じで、〝過ぎてしまえば一生ははやい〟。
言うまでもなく、一度過ごした一生の後に、新しい一生はない。
新年を期待するように、新たな人生を期待することはできない。
これを、どれだけの人が意識して生きていることやら・・・
心配しなくていいことクヨクヨの憂うわりには、本当に心配しなければならないことは気にも留めない・・・人ってそういうものか。

そんな師走。
冷え込みが増しているのは、季節ばかりではない。
金融危機に代表される不景気が、社会を凍りつかせんばかりの猛威を奮っている。
中小零細企業だけでなく、大企業の業績も急激に悪化。
ボーナス減や減給で済めばまだよし。
倒産や解雇で職を失っている人も少なくないよう。
そんな寒風が吹き荒む中、無事に年を越せるかどうかヒヤヒヤしている人も多いのではないだろうか。
企業も個人も実入りが減り、もはや、貧乏が他人事ではなくなりつつある。

かくいう私も、貧しい者の一人。
経済的にも物理的にも富裕ではないが、最も貧しいのはその心。
目に見えるもの・見えないものに関わらず、〝アレも欲しい!〟〝コレも欲しい!〟〝もっと!もっと!〟・・・品性に欠ける欲望は尽きない。
こうして生きられていられるのは、〝生きるうえで必要なものは全て手に入っている〟ということの表れでもあるにも関わらず。
特に、金に対する欲望は根強く・・・こんな〝守銭奴〟〝金の亡者〟が、「金より大事なものはたくさんある!」と言ったところで、説得力はない?

まぁ、金持ちではないけど貧乏過ぎもしない現状は、私がマトモに生きていくうえでは調度いいのだろう。
私のような人間が大金を手に入れたら、途端に勤労意欲がなくなり遊興快楽に走るはず。
暴飲暴食の末に、身体を壊すかもしれない。
不道徳な行いも増えるだろう。
そして、人として堕落の一途をたどる・・・

逆に、貧し過ぎても困る。
食べるにも事欠くようでは労働意欲を疲労感が覆い、短絡的な発想しかしなくなる。
栄養不足の末に、身体を壊すかもしれない。
利己的な行いも増えるだろう。
そして、人として堕落の一途をたどる・・・

どちらをとっても、結果的には身の破滅。
それは、私が望むものではない。
だから、満たされない欲を抱えてても、今の私には今の境遇が適しているのだと思う。

16年前、20代前半にいた私が死体業に就いた経緯は、以前のブログ(初期)に書いた通り。
当時の心情の中に、〝好奇心〟〝投げやり〟〝ヤケくそ〟があったのも事実だが、その動機の核心を書いていない。
〝書き忘れた〟のではなく、意図的に。
私は、自分が持つ邪悪な性質を露呈させることに躊躇い、結局、そこまで踏み込まなかったのだ。

当時、ダメ人間の烙印を自分で押し、極度の鬱状態に陥っていた私は、とても暗い状態にあった。
夢も希望もなく、見通せない将来を憂うのにも疲れ、生きることには虚しさを感じるのみ。
傷心と憔悴の中で、心は冷え切っていた。
それでも何とか生きていくことにした私は、縁あって?この死体業に巡り合った。
労働条件は決してよくはなかったけど、一人で食べていくには充分の賃金。
先のことは何も考えずに、黙々と働き、月給をもらって食いつないだ。

そんな就業の〝動機の核心〟とは・・・
死体業は、人の〝死〟を目の当たりにする仕事。
私は、そんな人の不幸を見て、それを自分の慰めにしようとしていた。
人の不幸を見れば、自分の不幸がマシなことのように感じられるのではないかと思った。
〝人の不幸は蜜の味〟と言われるように、私は、それを求めて死体業に就いた・・・
そんな恥ずべき思い・汚い心があったのだ。

不幸に泣く者があれば共に泣き、幸に笑う者があれば共に笑う。
これが、人間の本来あるべき姿。
しかし、私は、不幸に泣く者があればほくそ笑み、幸に笑う者があれば妬み・・・
腐乱死体臭さえ足下に及ばないくらいの悪臭に満ちた人間臭さを持っていた。
私の性根は、そこまで腐っていた(いる)のだ。

そんな邪心をよそに、私は次から次へと人の死に遭遇。
そして、そこには、確かに人の不幸があった。
その悲惨さと自分の暗陰を比較して薄情な同情心を抱き、曲がった根性と甘ったれた卑屈さの中に自分の幸を探した。
しかし、人の死には、幸・不幸、喜怒哀楽、邪心を超越した絶対性があった。
それは、私ごときが想像していたものよりも、はるかに重く・深く・大きかった。
〝自分を慰める〟なんて呑気なことを考えてられない厳しさがあった。
そんな中で、「生きるとは?」「死ぬとは?」
考えずにはいられなくなった。
そうして月日は流れ、今日に至っている。

さてさて、本ブログには公開・非公開を含めて色んな方々から色々な意見が寄せられている。
そして、書き込まれるコメントを読んでいると、特掃隊長というヤツが、そこそこの人格者のように思えてくる。
しかし、実際は、特掃隊長のキャラが現実の私を離れ、読んでくれている方々の想像の中で勝手に一人歩きしているだけのように思える。
やはり、私=特掃隊長は、他人様に褒めていただく程できた人間ではない。
邪悪な心をタップリ持ち合わせた、できの悪い人間なのだ。

酒を飲み過ぎては腹を壊すことを繰り返すし、
宝クジを買っては当たったような気になってニヤケるし、
蛇のゴム玩具に飛び上がって驚くし、
豚丼に牛丼料金をとられても泣き寝入るし、
歯医者は怖くて行けないし、
子供だましの心霊写真も見れないし、
三日過ぎた納豆でも食べちゃうし、
おしぼりで、顔だけじゃなく耳までを拭いちゃうし、
いい歳をして財布の中はいつも何千円だし、
ペットボトルのキャップや使用済切手を集めてるし、
スーパーで見切品を買うかどうか五分くらい悩むし、
〝最近の若いもんは・・・〟って批判する割にはレジの女の子に愛想よくしてしまうし、
ホントは食べたいくせに〝○○産鰻は食わない!〟って格好つけるし、
薬嫌いのくせにサプリメントは大好きだし、
デカい口を叩けるのは、陰口か独り言のときだけだし・・・
・・・大した人間ではない。
良くも悪くも、先走る隊長をいかに事実の自分に引き戻すか・・・これが課題だったりする。

このブログ・・・
私は、心に湧いてくること・思っていることを伝えたい気持ちで書いているだけ。
「誰かの手本になろう」「誰かを励まそう」なんていう傲慢な気持ち書いているわけではない。
また、読んでくれる方々が抱く結果(感情)にまで影響を及ぼせる程の力を持っている等と、身の程知らずの勘違いもしていない。
結果的に、その一語一句が、誰かの励みになり支えになり糧になっているとするならば、それは極めて幸いなことだが、ただ、それは私の手柄ではないし私の力でもない。
それは肝に命じている。
自分の無力さを知ることは、とても大切なことだと思っているから。
そして、それを知らないと自分を強くすることはできないし、人を強くすることもできないと思っているから。

ブログをやめることも続けることも簡単なこと。
そんなこと、さして重要なことではない。
大切なのは、人の死・・・死体と向き合う自分と向き合うこと。
せっかく生きているのに、死んだ状態にある自分を剥くこと。
死人のように冷たくなった心を温めること。
そうして、〝動機の核心〟を〝人生の確信〟へ変えること。

そんな私の口癖。
「(人生は)これから・・・これからなんだよ」
その意味と希望は、貴方の心の奥底にもあるのだ。

このページのTOPへ

お問い合わせ

WEBエッセイ「特殊清掃・戦う男たち」

特殊清掃 よくあるご質問

特殊清掃 取材・公演依頼

対応エリア

対応エリア
関東全域をメインに対応いたしております。
その他、全国も関連会社より対応いたします。