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特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分

特殊清掃「戦う男たち」

ありがとう

12月は、忘年会のシーズン。
本来、内向的だが、普段、人並の外面だけは保持するよう努めているせいか、私にもそれなりの付き合いがある。
ただ、そんな宴席、酒好きの私でも気の進まないものが少なくない。

私は、不特定多数の人を相手に、社交辞令的な話をするのは極めて不得意。
それこそ、酒の力を借りないと口が滑らかに動かない。
酒に弱い方ではない私が、酒の力でその口を滑らかにするには、相応量を飲まなければならず、これが結構大変。
本当は、誰にもちょっかいを出されず、地蔵のように一人で固まっていたいのだが、それでは雰囲気を壊してしまう。
かと言って、私の性格では、素面(シラフ)ではとても社交的に和気藹々とはいかない。
やはり、酔って自分を壊すしかないのである。

飲みたい時に・飲みたい処で・飲みたい相手と・飲みたい酒を・飲みたい量だけ飲む・・・
酒は、誰にも気を遣わないで飲んでこその酒。
つくり笑顔で飲む酒に、大した旨味はない。
そうは言っても、一人で生きていけないこの社会では、社交辞令も人との付き合いも大切。
飲みたくない酒を飲み、面白くもない話に笑顔をつくり・・・そんな苦酒を飲んでいるのは、私だけではないだろう。

こんな私も、若い頃は、飲み会が理由なく楽しかった。
若い頃は、翌日のことなんか考えずに、その場の雰囲気と勢いだけで飲み、泥酔・嘔吐・千鳥足・喧嘩・・・ヒドい醜態を晒したことも多々。
ただ、今はもう、泥酔するまで飲むことはなくなった。
結構な量を飲むことはあっても、記憶が飛んだり・吐いたり・クダをまいたりすることもない。
身体にも悪いし、二日酔になると仕事もキツいから。

私の場合、二日酔の症状は、頭痛・倦怠感。
ヒドい時には、これにムカつき・胸ヤケが加わる。
体調によっては翌々日まで持ち越すこともあり、二日酔ならぬ三日酔になる。
そんな状態での現場作業は、かなりキツい。
ただでさえ楽じゃない現場作業に、無用な過酷さが増す。
やはり、飲み過ぎは、自分で自分の首を絞めているようなもの。
適当に飲んで適当に酔って・・・ホロ酔いに、身も心もホカホカするくらいが丁度いい。

余談だが・・・
私は、酒の強要がスゴく嫌い。
強要するのも・されるのも。
〝最初の一杯を交わしたら、あとは手酌〟
それが私の大原則。

あちこちの飲み会で、蟒蛇が下戸を相手に酒を強要している場面に出くわしたことがある。
言葉は悪いが、度を超すと、宴席を利用したイジメにしか見えない。
酒の強さと人間性は関係ないことのに、酒の強さが人間的な強さに比例しているかのように誤解し、その酒豪ぶりを誇示する。
私は、弱い方ではないのでそんな〝イジメ〟に遭っても返り討ちにするだけだが、人がやったりやられたりする姿を目にすると自分の酒までマズくなる。

〝酒に弱い=格好悪い〟
なんて、つまらない価値観がどこかにないだろうか。
特に、男の世界で。
しかし、そんなことに拘っている人に酒は早い。
頭がまだ大人になっていない証拠だから。

「酒が飲めない人は、人生を損してる」
なんて戯言もあるが、
「酒を飲む人は、酒の力を借りなきゃいけないほど弱い」
とも言えるかも?

そんな忘年会にストレスをかけられながらも、こうして師走を迎えることができていることに、感謝・感謝。
苦楽の中、何も変わらない平凡な日々に感謝の念が絶えない。
〝生は幸・死は不幸〟なんて安易なことを言うつもりはないが、今年もまた多くの人の死を目の当たりにしてきた私は、素直にそう思う。

私が言うのもおこがましいが、感謝の気持ちは大切だ。
何事にも感謝する謙虚さがないと、何事にも満足を覚えられない傲慢さ、自分の力を過信(誤信)する高慢さが自分を支配する。
傲慢からはワガママな心しか生まれないし、高慢からは貧しい心しか生まれない。
そして、ワガママで貧しい心に、平安はない。

そう偉そうに言ったところで、私の中に涌いてくるのも不平・不満・不安ばかり。
かなり意識していないと、感謝の気持ちなんて湧いてこない。
しかしまぁ、こんな葛藤の繰り返してこそ、人は成熟するものだと思っている。

このブログは、誰かに読んでもらうために書いているものであるのだが、実のところ、自分に言い聞かせるつもりで書いているものでもある。
だからこそ、〝きれいごと〟とも取れる剥き出しの文章になっているのだ。
汚くしか生きられていなくても〝きれいに生きたい〟と願いっている者だから。

どちらにしろ、ブログなんてものは〝日記〟と言いながらも、書く者だけではなく読んでくれる人がいなければ成り立たない。
読み手が必要なければ、公開する必要もないわけだし。

筆者は、何かの意味を持って書く。
そして、誰かに読まれることによってその意味が膨らむ。
そうして、双方の存在があって、ブログは息をするのだろう。
そして、その意味と価値を分け合ってこそのブログなのである。

「本ブログがそうだ!」
と言い切れるものではないけど、それでも数々のコメントが書き込まれる。
たまには、誤解から誘引されたような意見や私の不徳に誘発されたような耳(目)の痛い意見もあるが、大方は肯定的なもの。
多くの、労い・励まし・癒される言葉・・・中には、〝ありがとう〟の言葉もある。
また、今まで、現場でも色んな人から「ありがとう」を言ってもらってきた。
そのほとんどは、日常的な感謝から発せられるものではなく、非日常的な悲しみの中から発せられる言葉。
日常では感じられない違う重みがある。

依頼者のためにやっている仕事じゃないけど、結果的に依頼者のためになっている仕事。
経済的な報いがないとやらない仕事だけど、それだけじゃできない仕事。やりたい仕事じゃないけと、やらなければならない仕事。
交錯する想いで受け取る〝ありがとう〟は、雑念をきれいにはらってくれる。
そして、弱い私を支えてくれる。

人は人だけに支えられて生きているわけではないけど、それでも、人は、支え合わなければ生きていけない。
誰かを支えながら、誰かに支えられながら生きている。

〝ありがとう〟
これは、感謝の意を伝える言葉。
しかし、実は、人を支える言葉であり、人が支えられる言葉。
励ましの言葉より、慰めの言葉より、叱咤する言葉より、癒しの言葉より人を支える力がある・・・
そんな言葉ではないだろうか。

私は、自分が受け取る〝ありがとう〟から、
「自分が存在していることには意味がある」
「自分が生きていることには意味がある」
「この人生には意味がある」
との想いを巡らせて、それによって自分が支えられていることがわかってきたのである。

以前のブログに書いたように、多くの遺族が〝ありがとう〟の言葉を故人に掛ける。
それは、単なる感謝の気持ちを超えて故人の過ぎた人生を支える言葉になり、残された人の将来を支える言葉になり、そして、別れの言葉になっているような気がする。

私も言わなければならない。
貴方にも・貴女にも・貴男にも。
そして、心の中に、いつも持って生きていきたい。

「ありがとう」

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