特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2006年分
特殊清掃「戦う男たち」
線香花火
私は夏の夜の花火が好きだ。
夜空に舞う打ち上げ花火は特に。
時間が合わなくて、ここ何年も花火大会には行っていないけど、綺麗な花火を思い浮かべるだけでワクワクする。
ドン!と上がったかと思ったら、パッと開き、サラッと消えていく。
音に迫力、火花に華、去り際に潔さ、その華麗さに魅了される。
同じ一つの花火なのに、光速と音速の差から視覚と聴覚に時を異にして届いてくるのも絶妙。
そんな花火には、人の生き死にが重なって見える。
日本文化においては、日本男児的な「男らしさ」に通じる部分もあるのかもしれない。
玉の大小、上がる高さに違いはあれど、誰の人生にも華があると思う。
そういう私は、いつ頃が華だったのだろうか。
それとも、華はこれから来るのだろうか。
生きていること自体が華だったりして・・・ね。
壮年の男性が死んだ。
死因は糖尿病。
どんな病気でも、闘病は辛く苦しい。少なくとも、快く楽しいものではないと思う。
糖尿病の食事制限や運動強制も相当のストレスを抱えるらしい。
故人は医師の忠告を軽く見たのか、節制ができなかったのか分からないが、病気を回復に向かわせるはずの自己管理を自らが怠ったらしい。
遺族の話を組み立ててみると、故人は、まさか死に至る程の深刻な状況になるとは思ってなかったらしい。
家族も本人も、いくら後悔したところで後の祭だ。
それでも、遺族は何かをごまかすために?故人の死を受け入れるために?やたらと「男らしかった」と褒めて場の混沌を払拭しようとしていた。
意志の弱い私などにとっては、何事についても自己管理というものは難しい。
自分で自分を律する力が問われる問題。
自分で自分を管理することよりも、他人に自分を管理してもらう方がよっぽど楽なことだと思う。
ひと昔前、アメリカで出世できない人物像というものを聞いたことがある。
それには、たった二つの要因しか挙げられていなかった。
「太った人間」と「タバコを吸う人間」。
要は、「肥満・喫煙」→「自己管理能力が低い」→「社会に通用しない」→「出世できない」という式図らしい。
肥満と喫煙については一概には言えないかもされないけど、自己管理能力の重要性については同感したものだった。
では、人生においては
何をどう自己管理すればよいのだろうか。
「人生」という道を歩む時、どこに重きを置いて進めばよいのか。
我々は、常に明日の不安ばかりに心を奪われ、今日を見失ってはいないだろうか。
昨日のことばかり悔やんで、今日を暗い一日にしてはいないだろうか。
はたまた、「今が良ければそれでいい」と短絡的な歩を進めてはいないだろうか。
昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
昨日の思い出に笑い、明日の夢に期待し、今日の糧に感謝する。
なかなかできないけど、それが私の理想。
自分の命は自己管理できるものではない。
人生だって、一体どれだけ自分の力が通用するものなのか。
私は、派手な花火に憧れる線香花火。
世の中の表舞台に立つことはない地味な存在。
若年の頃は、やたらと派手な花火を打ち上げてやろうと燃えたこともあった。
それが、いつの間にか花火をあげるかわりに線香をあげている。
それでも、火玉の途中で落ちてしまう線香花火に思う。
「俺は最期まで燃えて尽きたい」と。