特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2006年分
特殊清掃「戦う男たち」
ラブレター
別れの柩に手紙を入れる人は多い。
故人に宛てたものがほとんどだろうが、アノ世に先立った人へ言葉を託けたものもあるかもしれない。
生前は照れ臭かったり、日々の生活で見過ごされたりしてきた当人(故人)への想いが、純粋なかたちでてくる場面でもある。
「できることなら、生きているうちにそういう想いを伝えられればよかったのに・・・」
そう感じることが多い。
共に生きていられる時間は限られている。
照れている場合じゃないと思う。
日本人にとっては「臭い」と思われるセリフを平気で吐けるアメリカ人が羨ましい。
私は、葬式にはイヤというほど関わっているが、結婚式には縁がない。
何年かに一度、誰かの結婚式に招かれることがあるくらい。
葬式ばかり経験していると、結婚式がとても新鮮だ。
他人の幸せを嫉みがちな私でも、結婚式の幸せに満ち溢れた雰囲気は好きだ。
結婚式の場面でも、普段なら照れ臭くて言えないようなセリフがよくでてくる。
新郎新婦が親に宛てた手紙を読んで感極まって涙を流したり、またその逆があったり。
それはそれでいいことだと思う。
でも、その数日後にはいつものノリに戻って、相変わらず親子喧嘩や夫婦喧嘩をする。
一体、結婚式の時のスタンスとテンションはどこに行ってしまうのだろうか。
心当たりある人、結構いるでしょ?
たまには照れを捨てて、大事な人に大事な想いを伝えてみたらいいと思う。
口で言うのに抵抗があれば、手紙を使えばいい(最近はE-mailか)。
そんな些細なことで、自分も相手もHappyになれればいいよね。
ある老婆が亡くなった。
子供は長女と長男の二人(姉弟)、二人とも中年になっていた。
二人とそれぞれの家族が遺族として集まっていた。
遺族は柩の中に色々なものを入れていた。
その中に、一枚の古ぼけた葉書があった。
長男はそれを柩に納めるかどうかを迷っており、長女としきりに相談していた。
長女もなかなか決断できないようで、いつまでも迷っていた。
それは、60余年前、亡き夫が故人宛にしたためたものらしかった。
今でいうと国際郵便になるのだろうか、戦地からの手紙だった。
その手紙を出して間もなく、夫は戦死したらしい。
二人の子供達はまだ幼少で、父親の顔はハッキリ憶えてないらしかった。
野次馬根性からか、私はその手紙を読んでみたくなった。
「読ませてほしい」なんてずうずうし過ぎることは分かっていたが、抑えられない好奇心もあった。
でも、やはり自分から声を掛けるのは筋違いなので、黙って作業の手だけ動かした。
私の興味深そうな視線に気づいたのか、柩に入れるかどうかのアドバイスが欲しかったのか分からないが、長女が「見て下さい」とその葉書を渡してくれた。
受け取った小さな紙片には、命と時間の重みがあった。
残念ながら文字もかすれ、紙が黄ばみ、文章として読み取ることはできなかったが、若き日の夫が書いた筆跡だけは感じることができた。
内容を聞くと、遺書めいたニュアンスで妻子のことを案じ、励ますようなものだったらしい。
今の時代に生まれ育った私には、戦地から家族に手紙を書く極限状態を想像することもできない。
常日頃は「人間はいつ死ぬか分からない」「自分の死を考えよう」等と何かを達観したようなことばかり吐いている私だが、結局のところは死との間に適当な距離感を持てている甘ったれかも。
戦場で命を張る兵士とは、とても比較にならない。
(※戦争を美化し、兵士の仕事を賞賛しているのではない。)
この夫はどんな気持ちでこの手紙を書いたのだろうか。
当時の戦況から、日本に生きて帰れないことを覚悟していたことは容易に想像できる。
そして妻(故人)は、そんな気持ちでこの手紙を受け取ったのだろうか。
夫の生還を祈りながらも、生きて再会できない覚悟もしていたかもしれない。
想像すると言葉に詰まる。
私は「故人が60余年も大事にしていた手紙だから、柩に入れてあげた方がいいのでは?」と自分なりの考えを伝えた。
しかし、故人の安らかな顔を見ていたらその考えがシックリこなくなった。
そして、すぐにその言葉を撤回した。
「天国で再会している二人にはもうこの手紙は必要ないのでは?」
「この手紙がコノ世に残った人の糧になるなら、大事の持っておかれた方がいいと思う」という旨のことを伝えた。
その後の通夜や告別式で、二人の子息がその手紙を柩に納めたかどうかは分からない。
夫が戦地から送ったこの手紙は、それまでは大事な妻のために生きていた。
父が戦地から送ったこの手紙は、これからは大事な子供達のために生きる。
それを受ける人が残るかぎり、書き手の魂(愛)は消えることはないのかもしれない。
それにしても、最近は読めるけど書けない漢字が増えてきた。
「手紙を書く」というよりも「手紙を打つ」といった表現が正しくなってきた感じ。
そのうち、絵文字や顔文字が辞書に載るようになったりして。
遺言ばかり書いていると辛気臭くなるから、私もたまには誰かに手紙を書いてみようかな。