Home特殊清掃「戦う男たち」2006年分輝ける日々Ⅰ ~共に歩く~

特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2006年分

特殊清掃「戦う男たち」

輝ける日々Ⅰ ~共に歩く~

死は老若男女、全ての人に訪れる。
その人生はもちろん、寿命や死に様は人それぞれ。
しかし、死そのものは誰にも公平なものだ。

日本人の平均寿命が物語る通り、亡くなる人の大半は高齢者だ。
遺体処置業務の仕事が入ると、まずは故人の年齢が気になる。
変な言い方だが、高齢だと安堵に似た感情を覚える。
それが長寿であればあるほど、変なプレッシャーはなくなる。
「仕事だ」とドライに割り切っていても、やはり故人は長寿の人がいい。

念のために断っておくが、「老人なら死んでもいい」「老人から先に死ぬべき」等と思っている訳ではないので、くれぐれも誤解のないように!

故人の年齢が若ければ若いほど妙なプレッシャーが増す。
無用に気構えてしまうのだ。
ましてや子供となると、イヤな力み方をする。
その理由を記すと長くなりそうなので、これはまた別の機会にしよう。

老人の死が多いということは、仕事上で老夫婦の別れに立ち会うことも多いということ。
どんな別れにもそれぞれの悲哀があるが、老夫婦の別れには独特のドラマがある。

人の一生において、最も長く共にいる人は誰だろうか。
親?子?兄弟姉妹?・・・親も子も兄弟姉妹も、共にいるのはだいたい20年程度だろう。
精神的・肉体的・経済的・社会的に一人前になれば、それぞれがそれぞれのかたちで離れていくもの。

そんな中で長く共にいるのは、やはり夫婦だろう。
親と死別しても子が独立していっても、夫・妻だけはそのまま残る。
(もちろん、結婚しない人や離婚・死別等で早くに夫・妻と別れた人もいるはずだが、ここでは一般多数の状況にもとづく。)

この高齢化社会では、半世紀も一緒にいたような老夫婦も珍しくない。
そんな夫婦が死に別れる様は、親子や兄弟姉妹の死別とは異なる重みがある。
血肉を分けた間柄でもないし、出逢うまではアカの他人だった男女が夫婦になると血よりも濃い絆をもって人生を共に歩く。
「貴方と一緒で楽しい人生だった」
「ありがとう」
先に逝った故人に、そんな言葉をかける配偶者は多い。
そして、淋しそうに涙を流す。

気持ちが熱くなりやすかった(純粋だった?)若い頃は、そんな様を見て仕事を忘れそうになるくらいにのめり込むこともあった。
歳を重ねた今も、受ける重さは変わらない
が、・・・ここからは、表現が難しい。

この歳になると、老夫婦の死に別れに単なる寂しさや悲しみだけではなく、それらを超越した光のようなものを感じるようになっている。
光・・・再会の希望?夫婦が一つのものになった喜び?・・・自分の感覚・感情が文字でうまく表現できない。
強引にまとめると、老夫婦の死別の様は、時間がとまって輝いているように見えるのだ。
(↑何が言いたいのか分かんないよね?)

随分前、ある末期癌患者が、余命宣告を受けた際の心情を綴った手記を読んだことがある。
それによると、「病院から外に出ると、いつもの景色が、目に入る全てのものが輝いて見えた」とあった。
私なりの想像の域は越えないのだが、何となくその気持ちは分かるような気がする。
当たり前の景色・ありきたりの風景が、自分の時間が残り少ないことを自覚した途端に美しく愛おしく見える。

「この世とも、もうすぐ別れなければならない」
そう考えると、何もかもが眩しくて大切に思えてくるのだろう。

恋愛感情なんかとっくになくなり、普段は文句ばかり言い合っている仲でも、いざ死に別れなければならなくなると、途端に感謝の気持ちが芽生えるかも。
お互い、歳をとって心も身体もくたびれてしまっていても、夫・妻の存在が何よりも大切に思えるかもね。
苦しくて辛いこともあったけど、一緒に歩いた日々が愛おしく思えるかもしれない。

「輝ける日々は、誰(私)にも与えられている」
自分の死を考えるとき、何となくそんな風に思う。

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