特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2006年分
特殊清掃「戦う男たち」
輝ける日々Ⅱ ~生きる輝き~
「命の有限性を自覚すると生き方が変わる」
「命は、限界があるから輝く」
私は、そんな類のことを考えるようになって久しい。
では、それによって、私の人生は変化しただろうか。
ハッキリと自覚できないだけかもしれないけど、残念ながら、大した変化はないように思う。
また、私が生きる世界は、光り輝いているだろうか。
自分に与えられた時間には限りがあり、一瞬一瞬が貴重だということは何となく理解できているけど、残念ながら、輝いているとは言えない。
私の目には、生きているこの世界や人が美しく愛おしく映っているだろうか。
それらは、その時々の精神状態や気分によって、目まぐるしく変わる。
どちらかと言うと、私が生きているのは味気ないモノクロ世界になっているかもしれない。
気の持ち方やモノの考え方を少し変えるだけで、モノクロだった世界が色づき始める。
そんな類のことを吐いておきながら、そう言う私は自身はなかなか自分が生きる世界を色づかせられないでいる。
もちろん、人間同士の関わりの大切さや、きれいな景色の素晴らしさに触れることはある。
ささやかながらも、楽しさや幸せもある。
人に優しくしてもらった時、空が青く晴れ渡った時、ケーキ屋のショーケースを眺めた時、温かい味噌汁を飲んだ時etc
しかし、それは生きている中のごく一部・特定の場合、しかも表面的なことに限られている。
肝心なのは、何気ない普段の暮らし(人生)に通じた命の輝きのはずだ。
しかし、現実にはその輝きを見出だせないでいる。
三十数年の人生を思い返してみると、学生時代に一種の輝きがあったように思う。
社会的にも経済的にも背負う責任は軽く、適当に遊び・適当に勉強し・適当に食べ・適当に寝て、全てお気楽に適当に生きていた。
それに、「若さ」というエネルギー(生命力)もプラスされ、表面的には輝いていたように思う。
しかし、「生きる輝き」とはそんな類のことではないのではないだろうか。
強欲軽薄な私は、ついつい生きる輝きと遊興快楽をダブらせてしまいがちなんだけど。
限りある人生の中で、一体どうしたら、輝ける日々を手に入れることができるのだろうか。
私は、思い悩むばかりでハッキリした答を見つけられないでいる。
だだ、この歳になってきてボンヤリと答らしきモノが見えるようになってきた感じがする。
間違ってるかもしれないし、気のせいかもしれないけど。
また、これから更に歳をとっていくと変わるものかもしれない。
雲をつかもうとしているようなものかな?
結局のところ、輝ける日々は、自分が死に際に至ってやっと手に入れられものなのかもしれないと思う。
人それぞれに生き抜いた人生が、その終焉が近づいた時に人生そのものを遡及的に光らせるのではないかと。
艱難辛苦・苦悩苦悶の日々を悲観することはない。
辛いけど、耐えなければならない。
そんな日々を、必死に・必死に生きることによって、それは輝ける日々に変わってくるのだと、今の私は思う。