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特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2007年分

特殊清掃「戦う男たち」

人殺し

それは、ある日の夜のことだった。
「大至急!」
とのことで、私はその前に抱えていた現場を急いで終わらせて、その現場に急行した。

現場は閑静な住宅街に建つ賃貸マンション。
私を呼んだのは不動産管理会社の担当者。
先に電話で話していたこともあって、私達は挨拶もそこそこに本題に移った。

「まいりましたよ!こんなことされちゃって!」担当者は、怒りのぶつける相手を見つけたかのように私に向かってそう吠えた。

「よりによってコレですよ!コレ!」
担当者は、手の平を喉元に当てて顔を顰めた。

そのジェスチャーに愛想笑いの一つでも浮かべて頷けばよかったのかもしれないけど、予め自殺現場と分かっていた私は、黙ったまま返事をしなかった。
ただ、そんな私の心境にはお構いなしで、担当者は次々と質問を投げ掛けてきた。
どうも、こんな仕事を専業にしている私に興味を覚えたようだった。

「誰かがやってくれなきゃ困るとは言え、大変なお仕事ですね」
「まぁ・・・よく言われます」
「身体に着いたニオイはとれるものなんですか?」
「ユニフォームは普通に洗濯すれば大丈夫ですし、身体は風呂に入ればOKですよ」
「へぇ~、それはそうとしても、精神的にダメージを受けることはないですか?」
「精神的ダメージ?」
「ええ、私もこの現場でかなり気が重くなってますからね・・・貴方の場合は一件や二件じゃないじゃないですか」
「はぁ・・・なくはないですけど・・・その中身を説明するのは難しいですね・・・複雑すぎて」
「やっぱ、自殺だと違いますか?」
「ん゛ー、〝自殺だからどうこう〟というものじゃないんですよねぇ・・・」
「ふぅ~ん、そんなもんですかぁ」
「まぁ、生きてくことが決して楽なことじゃないことは、どの現場でも共通して感じますね」

〝仕事を通じて受ける精神的ダメージ〟・・・
やはり、それはあると思う。
自覚できるだけじゃなく、自覚できていないものも含めて。
そして、それは私の中に長期間に渡って複雑に入り込んでいるため、一種の麻痺状態を生み出しているのかも・・・だから、この仕事を長くやれているのかもしれない。

基本的に、特掃現場はどこも重い。
肉体的な作業は軽くても、人が死んだことには変わりないから。
しかし、そのことを後々まで重く引きずるようなことはない。

「あんな現場もあったな」「こんな故人もいたな」等と、ただの思い出として記憶に残っていることはあるけど、それが私の人生の足を引っ張ったり何かのトラウマになっているようなことはない。
そもそも、そんなタイプの人間だったら、この仕事はやってないしできないだろう。

だからと言って、
「俺は強い男・タフな人間」
と言っているわけではない。
むしろ、その逆。
弱い人間だから〝精神ダメージ〟をうまく消化できるのだ。

強い人間だったら真正面から対峙しようとする。
そして疲労する。時には負ける。
しかし、私のような弱い人間は、よく噛まないまま丸呑みしてしまう。
さすがに避けることはできないから、自分に正直に自然体で受ける。
そうして、自分なりに消化する。
単なる冷酷さやビジネスライクなスタンスを越えた温乾なポジションがあるのだ。

「死にたいヤツは死ねばいい」
若かったかつての私は、そんな風に考えていた。
自分の命・自分の人生は自分が決めていいものと思っていた。
しかし、現場経験を重ねてくるうちに、その考えは少しずつ変わっていった。

「人に迷惑をかけなければ、自殺は本人の自由」
残された人々を見ているうちに、私はそんな風に思うようになっていった。
本blogにも何度となく書いているけど、自殺・腐乱の後に残された人は悲惨。
事は事後処理だけにとどまらず、その人の人生そのものを破壊することもあるから。

では、今現在はどうか。
「自殺は、自分を殺すこと」
「自殺は人を殺すこと」
「自殺は残された人の人生も破壊する」
「つまり、自殺はある種の人殺し」
そう考えるようになっている。
〝人殺し〟と聞けば誰でもすぐさま嫌悪感を覚えるだろう。

では、何故、人は人を殺してはいけないのだろうか。
法律で決められているから?
しかし、死刑や戦争は合法。
命は一つしかないから?
単なる希少価値か。代わりの人間はいくらでもいる。
人の嫌がることはしてはいけないから?
人が嫌がることをすることなんて、日常的に横行している。

また、人の頭の中で起こることも興味深い。

「アイツさえいなければなぁ」
「アノ人がいなくなってくれたら清々するのにな」
「あんなヤツは死んでしまえばいいんだ」
なんて事を考えた経験を持つ人は多いと思う。
それは、頭の中で行われる一種の殺人。

誰にもウマの合う人と合わない人がいるのは自然なこと。
肌の合わない相手とはあまり関わりたくないもの。
しかし、社会を構成する一員としては、嫌いな人とでも苦手な人とでも付き合っていかなければならない。
すると、そのストレスを中和するために、人は頭の中で殺人を犯すようになる。
それは、実行を伴わないから罪悪感もなく、至極自然な思考として人の中に潜在する。

そんなことをずっと考えていると、人が人を殺してはいけない真の理由がわからなくなってくる。
「人を殺してはいけない」という価値観・思考は先天的に存在する本能なのか、後天的に植え付けられた教育なのか。
ただ、その明確な理由がわからずに私は迷想するばかりだった。

そんな変態的?な私は、この歳まで来てやっとその答に巡り会った。
何故、人殺しがいけないことなのか・・・
その答はシンプルながら、私にとっては絶対的なものだった。
(それについては、ここでは省略しておこう。)
私は、その答を得てから、自殺に対する考え方が変わった。

極論かもしれないけど、自殺は人殺しと同じこと。
そして、やってはいけないことなのだ。
今の私はそういう結論に達している。

私も、深い虚無感に襲われたり重い疲労感を背負ったりしながら生きている。
生きていることそのものを空しく面倒臭く思ってしまうことも頻繁にある。
夜中、浅い眠りから何度も覚醒して、
「このまま朝が来なくてもいいな」
「ずーっと眠ったままでいたいな」
なんてことを思うのはほとんど毎日。
しかし、生きることは権利ではなく義務。
死ぬこともまたしかり。生死に自分の自由と権利があると思ったら大間違い。

言葉が変だけど、「人は、生きているかぎりは生きなければならない」のだ。
いつか来る終わりの日まで。

大丈夫!
いつかきっと死ねるから。

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