特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分
特殊清掃「戦う男たち」
ハイエナ
〝ハイエナ〟って、いい印象を持たれない動物。
例話で取り上げるにしても、いい意味の言葉としては用いられず、不名誉な表現にしか使われない。
〝強い者に弱く、弱い者に強い〟〝他人のモノを横取りして自分が生き延びる〟〝意地汚い〟〝あさましい〟といった、汚いイメージが強いせいだろう。
しかし、現実は、ハイエナだって自然の摂理に逆らわず厳しい自然界で一生懸命に生きようとしているだけ。
なのに、そんな悪者にされてしまう・・・何だか気の毒な感じがする。
同じような存在に〝ウジ〟がいる。
ハイエナよりももっと身近な存在なのに(私だけ?)、そのポジションはハイエナよりもマイナー。
知名度も低く、人々の口から「ウジ」なんて言葉が発せられるのは、極めて稀なことではないだろうか。
したがって、例話などで、〝ウジ〟という単語が用いられることはほとんどない。
ウジにとって、そんなことは知ったことではないだろうが、ウジなんて生き物は人々の頭には必要のないものなのだろう。
「俺は死体に群がるハイエナみたいだな」
披露困憊・気落ちしているとき、こんな考えに苛まれることがある。
自分を惨めに思うことがあるのだ。
「いや・・・ハイエナじゃなくて、ウジかな・・・」
ハイエナなら少しは名実が知れているけど、ウジはほとんど知られていない。
同様の職に就く私には、やはり〝ウジ〟の方がピッタリきそうだ。
「俺は、〝人間界のウジ〟か・・・」
ウジのように人知れず、誰もが嫌がる汚物を掃除して回っているのは紛れもない事実。
好き好んで?そんなことをしてるのは、ウジと私ぐらい?
「それでもしっかり生きられてるだけ幸せだ」
私が、自分のことを〝人間界のウジ〟と呼ぶことについては、自分を卑下する気持ちがないわけではない。
しかし、今は、開き直る気持ちの方が強い。
特段のプライドがあるわけではないけど、自己憐憫的な思考癖は薄まってきているような気がする。
私が、自分の仕事を卑下し、自己憐憫的な発想をしがちなのは、周りに問題があるというわけではなく、私自身に問題があるからだと思う。
自分自身の問題とは、自分が持っている、職業に対する偏見と差別意識。
正直なところ、人生をやり直せるとしたら、この仕事は選ばない。
ただ、たまたま今は、それを自分がやっているだけのこと。
つまり、仮に他人がやっているとしたら、私という人間は思いっきり見下してしまうのだと思う。
悲しいかな、そんな薄っぺらい人間なのである。
しかし、だからと言って、存在価値がないわけではない。
底辺だろうが日陰だろうが、嫌悪されようが見下されようが、世の中の役割の一つを担っていることには違いない。
だって、ハイエナだってウジだって、〝必要だから存在している〟のだから。
私が死体業を始めた頃、当時の上司がこんなことを言っていたのを思い出す。
「この仕事の社会的地位が向上する日は近い」
若い私を鼓舞するためか、自分を励ますためか、その根拠を示さないままそんなことを言っていた。
しかし、若輩の私でも、それを鵜呑みにする気にはなれなかった。
死体業の社会的地位が向上するとは、到底思えなかったからである。
個人的な固定観念(悲観)に捕らわれているだけかもしれないけど、その考えは今も変わっていない。
以前にも書いたことがあるように、人間が死を忌み嫌う本性を持ち、生存本能を持つ限りは、〝死〟を取り扱う者がそのマイナスイメージの影響を受けるのはやむを得ないものと考えている。
死を取り扱う職業で世間の嫌悪感を受けないで済むのは、医療関係者や宗教家ぐらいだろう。
それ以外は、やはり、特異な目で見られることが多いように思う。
でも、それでいいとも思っている。
人が死を恐れ嫌うことは生きる素地のようなもので、「死を嫌うから生きられる」とも言えるから。
死を恐れ嫌うエネルギーを、そのまま生に向ければいいだけのこと。
特に、生きる力が弱い私のような人間は、例えそれが消極要因であっても、死への恐怖感を生への執着心に変えていくことをしないと沈んでいってしまうのである。
〝死〟は、何故か怖い。何故か悲しい。何故か嫌。
だから、生きる・・・生きられる。
言い方を間違えると誤解を招きやすいのだが、死体業は〝人の死を待ち望む〟かのような側面を持つ仕事。
一般の仕事が〝商売繁盛〟を願うことと同義。
ただ、ことの良し悪しに関係なく〝人の死を待ち望む〟なんてことは前面にはだせない。
言わずと知れたことで、
「不謹慎!」「無礼!」
等と、人々の顰蹙をかい、嫌悪されるからだ。
そんなことは、人の不幸を糧にしている商売の宿命なのだから、甘んじて受けなければならないのかもしれないけど、本音を言うとそこは避けて通りたいし、目を閉じていたい。
私も普通に人の子。
人から哀れに思われることや嫌悪されることは避けたい気持ちがある。
「ハイエナ!」だの「ウジ!」だのと罵られて、耐えられるような強さは私にはないのだ。
特掃の依頼が入った。
現場は公営団地の一室。
連絡してきたのは不動産管理会社の担当者で、私とは何度か一緒に仕事をしたことがある間柄。
こういう仕事なので滅多に会うことはないけど、お互いに顔見知りだった。
「またでちゃいました」
「また・・・ですか・・・」
「例によって、近所に悪臭が漂って近隣住民の方が困ってるんで、早めに何とかしてくれます?」
「わかりました」
「とりあえず、現場を見に来ますよね?」
「ええ、できるだけ早めに伺います」
私は、担当者と日時を合わせて現場に行くことにした。
「どうもどうも」
「ご無沙汰です」
「私は中は見てませんけど、かなりヒドいみたいですよ」
「そうですかぁ・・・」
「とりあえず、中を確認しますよね?」
「ええ」
「じゃ、早速お願いします」
「たまには一緒に行きます?」
「また、冗談を・・・」
担当者とは、ある程度の馴染みになっており、ジョークもお互いにお許しのこと。
担当者の方も嫌味なく率直にモノを言ってくるので、余計な気をつかう必要がなくてよかった。
「これじゃ、苦情がきても仕方がないな」
玄関の前に立つと、話に聞いていた通り、腐乱臭がプンプン。
それは急にそうなったわけではなく、少し前から臭っていたはず。
ただ、近隣住民も、その原因を知る前は我慢できていたのに、ニオイの元を知った途端に我慢できなくなった模様。
その心理は、充分に理解できるものであったが、人の心理が嗅覚に及ぼす影響が妙で、私は、内心で苦笑いしてしまった。
「お邪魔しま~す」
私は、玄関を開けて土足のまま中へ。
狂喜乱舞するハエをかき分けて薄暗い部屋を前進した。
「これかぁ~・・・」
台所とつながった小さなリビングの床に厚みのある汚染痕を発見。
見た目にグロテスクなそれは、よく見ると人型を表しており、故人がそこに倒れていた姿がリアルに頭に浮かんできた。
「うひゃー!ウジもウジャウジャ!」
警察が遺体を運び出す際に放置していったのだろう、その傍らには、上下の汚妖服が放置。
腐敗液をタップリ吸った状態で、ウジの集合住宅と化していた。
一通りの見分を終えて、私は担当者のもとへ戻った。
「おっしゃる通り、中はかなりヒドいですね」
「そうですか!」
「汚染は全てフローリングの上ですけど、多分、床下までイッちゃってるでしょうねぇ」
「まいったなぁ・・・」
「汚染箇所の処理だけでも、すぐやりましょうか?」
「お願いします」
「では、早速・・・」
「前も思ったんですけど・・・こんな現場ばっかで、精神的にやられません?」
「は?」
「私は、もういっぱいいっぱいで・・・」
「ん゛ー・・・慣れちゃってるのか、基本的には平気ですねぇ・・・でも、現場によってはキツいときもありますよ」
「やっぱり、そうですかぁ・・・」
「一応、中身はただの人間ですから」
「・・・」
「ただ・・・仕事を大事にしないと、食べていけませんからね」
「そりゃそうですよね・・・私も頑張らないと!」
「ですよ」
「変なこと尋いてスイマセン」
「いえいえ、大丈夫です」
この仕事が、私の生きる糧になっているのは現実であり事実。
泣こうが喚こうが、頑張るほかに術はない。
私は、担当者と、お互いを励まし合いながら仕事を進めた。
変態地味ているかもしれないけど、私は、現場にに感謝の念を抱くことがある。
「死んでくれてありがとう」
「腐乱してくれてありがとう」
と思うわけではないけど、
「この仕事があるお陰で、俺は飯が食えるんだ」
と、誰にでもなく感謝する気持ちを持ってしまうことがある。
その孤独死も腐乱も、悲しく痛ましい出来事には違いないのに、私の中に、人の死を悼む気持ちを覆い隠すくらいに、自然にそんな感情が湧いてくるのだ。
もちろん、人の死を・人の不幸を直接的に喜んでいるわけではないし、それを望んでいるわけでもない。
しかし、それが形を変えて間接的な喜びになっているのも事実・・・自分で消化していいのか悪いのか、悩ましい命題である。
そんな中に置かれると、自ずと自分の存在価値を考える。
極めて自己中心的・利己的な発想ながら、世の中の誰かを見て〝こんな人間は、いなければいい〟と思ってしまうことはないだろうか。
嫌いな人・自分を害する人・邪魔な人etc
そして、時には、それを自分自身に見いだしてしまうこともある。
自分で自分に〝存在価値のない人間〟〝必要のない人間〟というレッテルを貼るのだ。
それが、浅い傷心や自己憐憫でおさまらず、中には、実際の行動によって自分の存在を否定する人もいる・・・
どう理屈をこねたって、いなくていい人間なんていないと思う。
少なくとも、それを決める権利は誰にもない・・・そう、自分にも。
周りの誰もが自分を必要としてくれていないように見えても、身近にいる人から自分が疎ましく思われているように感じても。
どんなに自分が自分を嫌になっても、そんなことは、自分の存在を否定する理由にはならない。
今の今、私の五感に触れているものは〝現実〟という名の〝夢幻〟。
過ぎてしまえば儚いもの。
そして、ハイエナもウジも人間も、産まれて生きて死ぬことに違いはない。
ならば、もっと大胆に図々しく生きてもいいのかもしれない。
ゴミのように小さい私だけれど、ちょっとだけそう思って笑ったのであった。