特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分
特殊清掃「戦う男たち」
安息の地
人それぞれに〝ホッ〟と落ち着く場所や時間があると思う。
時間や場所ではなく、頭の中にそれを持っている人もいるかもしれない。
また、「誰かといるよりも、一人でいる方が落ち着く」と言う人も少なくないだろう。
好きなことをしながら一人で静かに過ごす時間っていいもの。
このネクラ的?要素は、私のような内向的な人間だけではなく、社交的な人でも多かれ少なかれ持ち合わせているのではないだろうか。
私の場合、第一は晩酌。
ただし、入浴後・就寝前であることが条件。
汚れた身体を洗ってサッパリとしてから、いつ寝てもいい状態でやる晩酌が格別だ。
だから、私は、どんなに腹が減っていても酒が恋しくても、風呂は先に入る。
私の場合、普通の汚れやニオイじゃないしね。
風呂上がりの一杯を楽しみにしながら浸かる風呂は至福の前味。
酒の味を倍増させるから、〝発汗でドロドロになった血液は、アルコールではサラサラにならない〟とわかっていてもやめられない。
どちらにしろ、飲酒後の入浴は身体にもよくないし、身体に汚れを着けたままでは、のんびり晩酌する気にもなれないから。
元来、私は風呂好き。
子供の頃は、心臓がバクバク・身体がフラフラになるくらいまで湯に浸かっているのが好きだった。
大人になった今も、基本的にその好みは変わらないのだが、ゆっくり湯に浸かることは減ってきた。
モタモタしていると晩酌の時間が押されて、その分、睡眠時間を削らなければならなくなるから。
眠りが浅い私にとっては、睡眠時間が削られるのは結構な痛手なのだ。
特掃は、衛生状態が極めて悪いところで作業しなければならないことがほとんど。
だから、やるにあたっては、衛生面にかなりの神経を使っている。
手袋・マスクを筆頭に、色々な防護策を整えて、身体が直接汚れないように注意する。
だから、実際は、汗・脂、ニオイ・ホコリ以外で身体が汚れることは少ない。
しかし、自分の身体がとても汚れたような気がしてならない。
だから、風呂に入ると念入りに身体を洗うため、湯に浸からなくても入浴時間はそれなりの長さになってしまうのだ。
最近は、健康ランドやスーパー銭湯があちこちにあるようだが、私はそういう所には出掛けない。
一時期は、銭湯に通っていたこともあったけど、今は、他人と同じ湯に浸かることに抵抗を覚えるようになってきた。
〝恥ずかしい〟等と言うことではなく、不衛生なような気がしてならなくなったのだ。
だから、ゆっくり温泉に浸かりたい気持ちはあれど、その条件は自分一人。
他人と共同の湯船は、いまいち爽快感に欠けてしまう。
しかし、本来、そのセリフ(思い)は、私が浴びるべき方の立場かもしれない。
普通は、身体に死体汚れや死体臭を着けた人間と同じ風呂になんか入りたくないだろうから。
ま、私のような人間は、余計な考えは捨てて、黙って小さくなってればいいのだろう。
ちなみに、サウナは大の苦手!
あの熱さは理解不能。
身体にいいとは思えない。
しかも、その空間は狭い。
出入口のドアが開かなくなったり、温度調節が狂ったりしたらどうするのか・・・考えただけで恐ろしい。
それでも、今まで何回かは入ったことがある。
でも、1分くらいが限界。
体温が上がる前に、恐怖心と緊張感で心臓がバクバクしてきて、とてもそのまま留まっていられなかった。
そんなサウナに好んで入るなんて、私はその神経を疑ってしまう。
しかし、まぁ、
「サウナ状態の真夏の腐乱死体現場を、密閉状態で片付けている人間の方がよっぽど異常だ!」
と言われてしまえばそれまでだけど。
余談だが・・・
「風呂が落ち着く」という人は多いだろうが、「トイレが落ち着く」と言う人も意外と多いらしい。
家族と暮らしていると、真に一人になれる場所はトイレくらいしかないからだろうか。
ゆっくりタバコをふかしたり、新聞を読んだりしながら用を足す人もいるらしい。
でも、さすがに、用を足しながらモノを食べるという話は聞いたことがない。
〝ものは試し〟で、やってみてもいいかもしれない(私は、やらないけど)。
何はともあれ、身体をほぐしてくれる風呂と頭をほぐしてくれる酒、そして、その後の布団が私の日常の安息の地になっている。
ある日の夜、男性から電話が入った。
その声と口調からは、男性が結構な高齢であることが伺えた。
男性はマンションのオーナーで、所有するマンションの一室で腐乱死体がでたとのこと。
どうも、浴室で練炭自殺を図り、そのまま腐乱してしまったらしい。
「早めに来て欲しい!」との要請に、私は翌朝の予定を変更した。
現場は、1Rマンション。
建物自体はそう新しくもなかったが、駅に近い街中に建っており、生活の便はよさそうな所だった。
依頼者の男性は、電話でイメージしていた通りの年配者で、穏やか人柄は言葉にしなくてもその顔つきに表れていた。
私に対する態度も丁寧で、優しい喋り方からもまたその人柄が感じられた。
「本人には、それなりの事情があったんでしょうけど・・・」
「・・・」
「こんなことをして、一体どれだけの人が悲しみの目に遭わせられることか・・・」
「・・・」
「ご家族が気の毒でなりませんよ・・・」
「そういう大家さんも災難ですよね・・・」
「それもそうなんですけど、真面目に生活している他の住人にまで迷惑をかけちゃってるわけでしょ?」
「えぇ・・・」
「変な話、気持ち悪がってる人もいるんですよ」
「そうでしょうねぇ・・・」
「大家として、それが心苦しくてね・・・」
「・・・」
「亡くなった人のことを悪く言うのもどうかと思いますけど、私はコノ人(故人)に怒りの鉄拳を食らわしてやりたい心境ですよ」
男性は、穏やかな口調を変えることなく、故人を非難。
マンションを汚されたことよりも、残された人に労苦・苦悩を与えること対する故人の身勝手さに強く憤っているように感じられた。
決行後の片付けは残された人間がやらなくてはならない。
遺族・関係者をはじめ、警察・葬儀社・不動産会社・大家、そして諸々の専門業者etc。
何人もの人が、その身体・金・時間を使って後始末に携わる。
そして、中には金では片付かないことも多く、人々の中に目に見えない汚れとキズが残る。
そんなこと、死ぬ本人にとっては、どうだっていいことなのだろうか・・・
遺体の第一発見者は男性。
故人は30代の男性。
決まって振り込まれていた家賃が入らなくなり、連絡もとれなくなったため、故人宅を訪問。
まさか、中で死んでるなんてことは微塵にも疑うことなく、合鍵で部屋を開けた。
そして、異様なニオイと雰囲気を醸し出していた浴室を開けてみると、浴槽の中で朽ちた故人を発見。
その凄まじい光景と衝撃は、とても言葉では言い表せないようだった。
故人には近い身内がいたが、あまりのショックでダウン。
現場の片付けは、男性が一任されたかたちになっていた。
普通なら、そこで抵抗・抗議してもよさそうなものだが、男性は遺族の心情を汲んでそれを引き受けたようだった。
一通りの説明を受けた後、私は現場に入った。
広めのリビングにカウンターキッチンがついており、なかなか住み心地のよさそうな部屋だった。
「こりゃ、スゴいことになってんなぁ・・・」
浴室は、凄まじい悪臭が充満し、辺り一面にはウジが徘徊。
そして、場に合わない七輪が二つ、不気味な雰囲気に輪をかけていた。
「あ゛ーぁ・・・」
浴槽を覗くと、赤茶黒の腐敗液にまみれた座布団とウイスキーの瓶。
故人は、練炭に火を着け、浴槽に敷いた座布団に座り、酒を煽りながら気が遠くなるのを待ったようだった。
酒を好む私は、それを想うと、嫌な親近感と切なさを覚えた。
「剥がすのが大変だな」
浴室内、隙間という隙間すべてに念入りな目張り・・・扉の隙間・排水口、天井の点検口・換気扇、全部が透明なビニールテープが何重にも貼ってあった。
それを貼るだけで、結構な手間と時間を要したであろうことは、容易に想像できた。
そしてまた、それを片付けるには、もっと長い時間を要することも覚悟した。
汚腐呂掃除は、いつどこでやってもツラい。
同じく、その現場の作業が辛酸を極めたことは言うまでもなく、頭に独特の重圧がのしかかってきた。
狭所・密室の作業が故人の遺志みたいなものを近くに感させたのか・・・
はたまた、私の弱い性質が原因か・・・
苦しみから解放される安堵感か、絶望の悲哀か・・・その時の故人の気持ちは、私には計り知れるはずもなく・・・
ただ、これから死に向かおうとしている人間の感覚が、そのまま浴室内に残っていることを錯覚させるような何かがあった。
その何かが、私の頭を重くしたのかもしれない。
燃焼しきる前の七輪も、中身の残った酒瓶も、腐敗液をタップリ吸った座布団も、シッカリ粘着したビニールテープも、何もかもが心にズッシリと重くて仕方がなかった。
ただ、オーナーの男性は〝自分も被害者の一人だ〟なんて素振りは一切見せず、また、私への気配りも忘れることなく後押ししてくれ、それに随分と支えられながら仕事を遂行したのだった。
「色々とご協力をいただいて助かりました」
「いえいえ、こちらこそ」
「大家さんも、これからまだ大変でしょうけど、身体な気をつけて頑張って下さいね」
「な~に、ここまで生きてきて色んな目にも遭いましたから、ちょっとやそっとのことじゃ動じませんよ」
「・・・」
「貴方くらいの年齢じゃ無理かもしれませんけど、私くらいの年になればわかりますよ」
「そうですか・・・」
「だから、いい若い者が自分で死ぬようなマネをしちゃいけないんですよ!」
「はい・・・」
既に、男性の心は安息の地に到達していたのか・・・こんな災難に遭っても、男性は表情も穏やかに落ち着いていた。
そして、老体を労うつもりの私が、逆に、生きる力をもらったのであった。
安息の地は、人それぞれ異なるだろう。
それは、ごく自然なことだと思う。
ただ、それを〝死〟に求めて〝死〟に見いだすのはどんなものだろうか。
「死にたい」「死んでもいい」と思ったことはあっても、実際に死んだことがない私が言っても説得力がないかもしれない。
ただ、自殺跡に残る何とも言えない悲壮感と漂う冷気が、〝自殺は、安息には程遠いものではないだろうか〟という虚無感を投げかけてくることは事実。
少なくとも、〝自殺では、安息の地に行けない〟・・・勝手な先入観と想いからくるものかもしれないけど、私は、そんな気がしてならない。
自分にとっての安息の地は、一体どこにあるのか。何によってもたらさせるのか。
表面的な遊興快楽か?
それとも、一時しのぎの楽観主義・プラス思考か?
人の愛か?
苦悩・苦悶の中でその答を求め、また一日が過ぎる。
一日生きたら、また次の一日を生きる。
そうして、一日一日を生きつないでいけばいい。
そうして生きていると、安息の地は自分に近づいてくる。
明日がこない日が自然にやってくるのと同じように。