特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分
特殊清掃「戦う男たち」
すっぴん
日常において、私は自分の顔に化粧をすることはない。
私と同様、大方の男性には化粧の習慣はないだろう。
しかし、最近は、〝化粧〟とまではいかなくても、それをするに近いくらいに肌をメンテナンスする男性も増えてきているよう。
そして、それを反映してか、膨大な種類の男性用化粧品が流通している。
しかし、私は興味が湧かず縁もない。
そんな私は、もう〝おにいさん〟ではなく立派な〝おじさん〟だ。
近年、そう呼ばれるには充分過ぎる風貌になり、若く見られることに若干の嬉しさを覚える年頃になってきた。
さすがに若作りしようとは思わないが、身だしなみ程度には肌をメンテナンスした方がいいのかもしれない。
男の私はそれでいいかもしれないけど、女性はなかなかそうもしていられない。
女性にとって化粧は、身だしなみでもあるようだから。
人によっては、スッピンの素顔を人前に曝すのは、裸で出歩くのと同じようなことであるらしい。
・・・私には理解しえないことだが、なかなか大変そうだ。
何はともあれ、女性にとって、若作りは永遠の課題?
躍起になって、アンチエイジングに取り組む勇姿には男顔負けの力強さがある。
まぁ、外面を飾ることによって内面にも磨きがかかれば尚良しで、そうなれば言うことはない。
「こんな顔じゃなかったのに!」
女性は、面布の下からでてきた故人の顔を見てそう言った。
その強い口調は、バラバラに散っていた皆の視線を一点に集めるほどに厳しいものだった。
故人は老婆。
私からすると、特段の損傷や変色もなく、ごく普通の遺体にしか見えず。
生体と遺体では肉の根本が異なるので、女性の言いたいことがわからないではなかったが、わざわさ目くじらを立てる程の変容ではないと思われた。
女性は、故人の娘。
生前の面影を薄くした故人に、納得がいってないことがありあり。
その思いが態度と表情に表れて、周囲の雰囲気を気マズイものに変えていた。
しかし、それが女性が抱える悲哀の表れであることがわかっていた周囲は、口を挟まずに黙っていた。
少しすると、女性は何かを思いついたように離席。
それから、化粧用品を一式持って戻ってきた。
そして、皆の視線が集まる中で臆することなく、故人の顔に化粧を始めた。
私は一抹の不安を覚えながらも、一歩下がってその様子を眺めることにした。
前記と通り、生体と死体では肉の根本が異なる。
遺体は、血色もなければ体温も低い。
筋力はなくなり、硬直がでる。
生前の顔つきと違って見えるのも自然なこと。
そんな遺体に化粧をしたところで、生前の顔が完全に戻るわけもなく・・・
仕方のないことだけど、女性はその辺のことを全く理解しておらず、その化粧は極めて不自然な仕上がりとなった。
それでも女性は諦めず。
何度も首を傾げながら、何度も化粧をやり直し。
しかし、どうやっても化粧はきれいに仕上がらず、安らかに見えていた故人の顔は、気のせいか疲労したように見えてきた。
同時に、最初は意気を上げていた女性も次第に消沈していった。
「もういいよ・・・」
シビレを切らした他の遺族が、沈黙を破って女性を制止。
女性も素直にそれに従った。
「おばあちゃんは、もともと化粧なんかしてなかったんだから、そのままの方いいよ」
遺族一同の意見はまとまり、結局、故人の顔に中途半端に塗られた化粧は落とされた。
女性はその様子を見ることもなく、離れた所に引き下がってずっと俯いて泣いていた。
女性は、故人(母親)の死をキチンと受け止めるためにも、その別れを美しい思い出にするためにも、故人の顔に化粧をしたかったのだろう。
しかし、死人の冷たさは生きた人間の温かさをもってしてもどうすることもできず、女性のささやかな願いは虚しく跳ね除けられたのだった。
故人が柩に納められる段になって、離れた所でうなだれていた女性は再び故人に近寄ってきた。
泣いてパンダになったその顔を見た遺族は、泣き顔と笑い顔を交錯。
その場に起こった人々の泣き笑いが人間らしくもあり、それに、すっぴんで眠る故人の笑顔が加わって、何とも温かいものを感じたのだった。
自分の心を素顔にすること、人の心に素顔を見ることって、簡単なことのように思えて意外と難しい。
本音だけでは渡っていけない、人の本音が見えない世の中にあり・・・
自分を守るために自分に不正直にならざるを得ないときがあり・・・
人は、自分に嘘をつくことができ・・・
人は、自分で自分を騙すことができ・・・
ある種の自己暗示や思い込ませによって、自分をごまかすことができるから。
そして、自分に対しても人に対しても、素顔を隠して生きた方が楽であったりするから。
それでも、人には、人として生きるために必要なことがある。
そう・・・〝自分に素直になる〟〝自分に正直に生きる〟こと。
もともと、人には〝自分に素直になりたい・正直に生きたい〟という願望・・・良心・良識がある。
誰に教わるでもなく、誰に押しつけられるでもなく、善行への願望や良識を守ろうとする意欲がある。
それは、自分では意識できないものかもしれないけど、人の中に自然と存在するものなのである。
しかし、同時に、人には邪悪な考えを持ったり悪い行いをしてしまう性質もある。
それによって得られる、歪んだ快楽を求めてしまう弱さがある。
〝正直〟とは、その字のごとく、悪に対しての忠実さや従順さを表すものではない。
自己中心的な思いや自分勝手な振る舞いを指すものではない。
あくまで、自分の中にある善良な意志に従うことなのである。
つまり、〝自分に正直に生きる〟とは、〝正しく生きる〟ことなのである。
では、何が正しくて何が正しくないのか、どうすることが正しくてどうすることが正しくないのか。
物事の正邪善悪なんて、そんなに簡単に分別できるのか。
・・・残念ながら、それは難しい。
何故なら、人間には、悪を喜ぶ忌まわしい性質があるから。
そしてまた、〝素直・正直〟を、浅はかな邪心をもって自己中心的な自由とすり替えるから。
自分に正直であることと自分勝手なわがままとは違う。
自分を律することと周りから制されることとは違う。
真の自由は良心にもとづく自制の上にしか成り立たない。
単なる利己主義・自己中心主義とは違うのに、それを〝正直〟と混同してしまうのだ。
しかし、まだ諦める必要はない。まだまだ人は捨てたものではない。
〝自分に正直に生きる〟〝正しく生きる〟とは、一体どういうことか・・・
それを考え・悩むことこそが、正しい道を生きようとしている証拠・・・つまり、正しく生きようとしていることそのもの・・・正しく生きていることに限りなく近いことなのである。
そして、正しく生きようとすることは誰にでもできることなのである。
私は、心の化粧を否定しているのではない。
それはそれで人が生きるために必要なものであるし、善い面もたくさんあるから。
ただ、それでも、たまには自分に素直になる時・自分に正直になる時・・・自分自身に自分の素顔を見せる時が必要であり、人生においてはそれも大切であることを伝えたいのだ。
そう・・・ちょうど、化粧直しに明け暮れた一日が終わり、就寝時には自分の顔を取り戻すように。
素の自分と対話する。
素の自分を見つめ直してみる。
そうすることによって、不安定極まりない心の行き先が安定する。
浮いたり沈んだり、右に行ったり左に行ったり、さまよう気持ちの軌道が定まる。
空費してきた過去を振り返る道程は楽ではないかもしれないけど、そうすることによって残された時間をどう自分と向き合うか、どう生きるかの道筋が何となくでも見えてくる。
・・・では、〝すっぴんの自分〟は、何のため?
何の意味がある?
それは、今を、確実に生きるために必要なもの。
そして、命を・人生を・自分を喜ぶことのできる、大きな意味があるのである。