特殊清掃を扱う専門会社「特殊清掃24時」:特殊清掃「戦う男たち」2008年分
特殊清掃「戦う男たち」
人生ゲーム
生老病死・・・
その摂理はいつの世も変わらず、現代においても亡くなる人の多くは高齢者。
老人・成人に比べると絶対数が少ないうえに、遺体処置の必要性が低いからだろう、死体業に従事する私においても、子供の遺体に遭遇することは少ない。
それでも、忘れた頃にポツリポツリと処置依頼が舞い込んでくる。
とある斎場にて。
亡くなったのは、10才にも満たない女児。
長い入院を経てのことだった。
両親は、蒼白い顔をして眠る我が子を呆然と見つめていた。
また、その周りを取り囲む多くの親類縁者は苦悶の表情を浮かべ、場は重苦しい雰囲気に包まれていた。
その深い悲哀は私の精神にまで及び、仕事でなかったらいられないいくらいの圧迫感があった。
そんな中、大人達に促されて、一人の女児が遺体の前に進み出てきた。
その女児は、故人と同年代の従姉妹らしく、生前は姉妹のように仲良くしていたよう。
遺体に近寄り、小声で別れの言葉を掛けた。
その表情は何かに怯えたように固く、人が死ぬことを必死に理解しようとして緊張しているのが私にはよくわかった。
「来てくれてありがとうね」
「○○(娘=故人)も喜んでるよ」
「○○ちゃん(女児)はいいね・・・」
「○○ちゃんは、元気でシッカリ生きるんだよ!」
叶わなかった願いを女児に託すように、母親は女児を愛おしそうに見つめながらしみじみと語った。
我が子は死に、子の従姉妹は生きており・・・それを理不尽に思っていないことは女児に対する穏やかさが表していたけど、それだけに、母の強さと悲しさが一層辛いものであることが感じられた。
子供用の中型棺は、故人の身の丈には小さかった。
窮屈そうに見えると悲しみが増すので、足首を曲げて頭が内壁に当たらないよう注意。
二度と見ることができない全身の姿に皆の視線が集中する中、故人は棺に納められた。
副葬品は、洋服・ぬいぐるみ・勉強道具・お菓子etc・・・
遺族の想いを乗せ、故人が好きだったものが多く用意された。
とりわけ、ゲームは大のお気に入りだったらしく、何種類かのポータブルゲーム機とそのソフトが入れられた。
長い闘病生活の中で、故人にとってゲームが大きな楽しみになっていたことは想像に難くなく・・・
これを棺に入れることは火葬場的にマズいことだったが、遺族の心情を痛いほどに感じていた私は、ただ黙って見ているほかなく・・・
出棺前に、それだけ抜き取ってもらう段取りをつけて、事を治めることにした。
「生きてれば、楽しいことがたくさんあっただろうに・・・」
棺の蓋に突っ伏して泣きく母親に、誰も声を掛けることはできず・・・
呻くような声が響くだけだった。
この故人が、生前、ゲームを楽しんでいたのと同じように、私が子供の頃にもゲームはあった。
ただ、それは、インターネットはもちろん、並の家にはPCさえない時代のこと。
今のコンピューターゲームの祖先である〝テレビゲーム〟〝ゲームウォッチ〟が出てきてはいたもののまだまた普及品ではなく、主流はやはりアナログゲーム。
オセロ・野球盤・サッカー盤etc・・・
サッカー選手の色をホッケー選手に変えただけのホッケーゲームもあり、この鈍臭い人間味がなかなか楽しいものだった。
中でも、一番のお気に入りだったのが人生ゲーム。
買ってもらった日の夜からハマりにハマり、家族を巻き添えにして連日連夜それに興じたことを今でもよく憶えている。
今になって考えると、何がそんなに面白かったのだろうか、我ながらちょっと不思議だ。
ルーレットに従って進んでいくと、目の前には色んな局面が出現。
小さなゲーム盤の中に凝縮された人生があり、悲喜交々の場面がある。
進学・就職・結婚・昇進・宝くじ当選・ギャンブル勝利etc幸せなことばかりでなく、事故・病気・火事・倒産・失業etc苦しいこともある。
順風満帆、何もかもうまくいくときもあれば、踏んだり蹴ったり、何もかもがうまくいかないときもある。
そんな刺激が非常に楽しく、それがこのゲームの醍醐味であった。
知っている人も多いと思うが、これは、ゴールへ到達する速さを競うゲームではない。
その勝負は、手に残る資産の大きさによって決せられる(ように記憶している)。
ただ、これは、一応の勝敗を分けるために設けられた基準。
その面白さや楽しさは、ゲームの勝利者にならなくても充分に味わえる。
「与えられた一生は、ゲームのように楽しめばいいんじゃないだろうか・・・」
のっぺりした心境になったとき、ふと、そんな風に思うことがある。
空想よってイヤなことから目を背けるのではなく、妄想によって現実から逃れるのでもなく、直面するもの全てを受け入れつつ自分の中に無責任な自分をつくってみる。
そして、第三者的に、他人事のように自分が抱える問題を見つめてみるのだ。
「お前は、本当の苦労を知らないから、そんな能天気なことが言えるんだよ!」
「本当の辛酸を舐めたことがないから、そんな軽々しいことが吐けるんだよ!」
そんな批判があるかもしれない。
しかし、幸も不幸も自分の心が感じることで、人が決める・人が決められることではない。
また、遊興快楽ばかりが幸とは限らない。
艱難辛苦が幸をもたらすこともある。
社会的地位のある金持ちが幸せとは限らないし、社会の底辺に埋もれる貧しき者が不幸せとは限らない。
人には一人一人、それぞれに与えられた道がある。
どんなに仲のいい夫婦でも・親子でも・親友でも一人一人別々の道がある。
だから、自分の道が標準だと思ってはならない。
人の道を、自分の道を基準に優劣してはならないのだ。
人生は、一人一人が違う道だから面白い。
山もあれば谷もあるから強くなれる。
晴れの日もあれば雨の日もあるから実に満たされる。
のっぺりした人生は楽かもしれないけど、退屈でつまらない。
「そういうお前は、今、幸せか?」
「万事がうまくいってるのか?」
「後悔や不安はないのか?」
そんな疑問があるかもしれない。
実際、後悔も不安もある。しかも、大きな。
「この人生、やり直せたらどんなにいいだろう」
今までに、何度そう思ったことか。
そして、これから何度思うことだろう。
しかし、人生は、どんなに悔やんでも振り出しには戻れない。
ただ、それと幸・不幸は別の話だ。
「幸せ?それとも不幸せ?」
そう尋かれたら、
「幸せだよ」
と、迷わず答えるだろう。
苦しくて辛くて悲しいことも多いけど、自分を不幸だなんて思っていない。
何故なら、生まれてきたこと・生きていること・自分が自分であることは、何億円の宝クジに当たることよりも総理大臣になることよりも奇跡的なことだから。
そして、今こうして生きているわけだから。
本来、生きるということは楽しいはず。
仮に、生きていることが、面白くも楽しくもないとしたら、わがまま病・贅沢病にかかっている心が節制に入っているだけ。
もしくは、疲れた心が静かなところに入って休んでいるだけ。
心配することはない。不安に負けることはない。
心が息を吹き返すのは、もう間近。
人生って、そういうものだから。
「生きてれば、楽しいことがたくさんあっただろうに・・・」
暗闇の中から母親がつぶやいたその一言は、人生の真を突き、心に大切なものを刻んでくれたのだった。